Witching Hour
ノート,  風景

どぶ板

横須賀は私が育ったまち。

そして、どぶ板通りは懐かしい青春の思い出の通り。
数年前のちょうど今頃、暑さの中どぶ板通りを歩いてみた。

どぶ板通りとは、米海軍横須賀基地(通称:ベース)の近くにあり、アメリカと日本の文化が融合した独特の雰囲気を持つ商店街通り。
子供の頃から知ってはいたが「あそこは子供は近づいちゃいけない」と大人たちが口々に話していたのが印象に残っている。

自ら訪れたのは中学生の頃。
友達とビリヤードの話題で盛り上がったが、まださほど流行っておらず、ビリヤード場やプールバーなど市内にはほとんどない時代。
ただ、どぶ板通りに行けばビリヤードがあるというのは知っていた。

ある日、学校を終え制服のまま友達とどぶ板に向かった。
まだ日も高く、閑散とした通りを歩くと開いている店を見つけた。
お客の姿はなく若い店員が一人。制服姿の中学生が入ってきたのが驚いたのか「ガキの来るところじゃない」と一喝されたが、勇気を振り絞りここへ来た思いを店員に打ち明けた。
しばらく沈黙が続いたので諦めて帰ろうとしたところ、思いもよらぬ提案が出された。

「気持ちはわかった。」
「だけど今日は帰りなさい。理由は制服だから。」
「そして来たいのなら、私服に着替え、俺がいる時に来い。」

「細かいことは来たとき教えてやる」と、まさかの提案に思わず声を出して喜んだ。
次の出勤日を教えてもらいこの日は帰った。

このお兄さんの名前、残念ながら思い出せないので「エイトさん」と呼ぶことにする。

エイトさんの出勤日、学校を終え着替えてからお店に行くと「ホントに来やがった」とニヤケ顔で店内に通してくれた。
他にお客はおらず、早速ビリヤードのルールやここでの遊び方や注意点など教わる。
本来は1ゲーム200円(当時)だが「今日は金はいらない」その代わり今日で覚えろと。

遊び方のルールはこうだった。
ここでは8ボールが基本。ローボール(1〜7)とハイボール(9〜15)に分かれ最後に8番を落とした方の勝ち。どのボールを落とすにしても必ずポケットを指定すること。例え落とせても指定通りでなければ順番は変わる。

台が開いているときはフリーだが、そうでない場合は勝者が台の権利者なので、その場合は黒板に名前を書きプレー代を払って台の権利者に挑戦する。勝てば自分に台の権利が移るが負ければ変わらず。
なので、友達とプレイしたいのであれば、先ずは君たちのどちらかが権利者に勝たなければならない。


シンプルなルールだがハードルは高い。


この日を境にエイトさんがいる日はほぼ通った。


早い時間であれば友達同士で遊べ、常に見守ってくれているのも安心できた。
それでもたまに「子供が遊んでやがる」と絡んでくる客もいたが、態度の悪い客はすぐに追い払ってくれた。
そんな日々が数ヶ月続き、気付けばそこそこ上手くもなり、たまに外国人と対戦することもあったが、結果は勝敗相半ばしながらだった。
数ヶ月くらい通った頃だっただろうか、エイトさんが店を辞めることを知り、それに合わせるように唐突にどぶ板通いが終わった。

月日は流れ、お酒も飲める歳になった頃、ひょんなきっかけでふたたびどぶ板に行くことになった。
夜のどぶ板通りは外人だらけで、ハッキリ言えば治安も決して良くはない。
昔大人たちが言っていた意味が今ならよく分かった。

偶然にも昔通ったお店に入った。
店内はあの頃と変わっていなかった。ただエイトさんはもういない。わかっていても寂しかった。
店のルールは変わっておらず、僕は黒板に名前を書いた。

勝敗はあっさりと終わり台の権利を獲た。

どぶ板には来なくなったがビリヤードは続けており、この頃になると上手くなっていた。

そして、この日を境にどぶ板通いが再開した。

大人になり、ビリヤードだけでなく店の雰囲気も楽しむ余裕もできていた。
「都会から出てきた人」「田舎から出てきた人」「海軍に入って初めて海を見た」なんて人もいた。
「アメリカの何とかというビリヤード大会で優勝したとこがある」という人と何度か勝負もしたがほぼ負けることはなかった。

横須賀というある種閉鎖的な街ながら、外人という存在が身近にあるのが不思議だったが、それはそれで楽しかった。
ツイストキャップのビールを片手に楽しい夜が何度も更けていった。

そんなどぶ板通いも数年続いたが、いつしか回数が減り、やがて行くことはなくなってしまった。

そして横須賀を離れた。

WITCHING HOUR MASTER | グラフィックデザイナー | Tokyo, Japan