将兵と街娼の唄
地元の横須賀を離れそろそろ四半世紀。
東京での生活の方が長くなり、それに比例するかのように地元の思い出がどんどん薄らいでいる。
楽しかったこともそうでなかったことも…
最近、ふと昔書いていたブログで地元の歴史について書いたのを思い出し、再編集してここに載せることにした。
戦後、横須賀に『横須賀タマラン節』なるゲス極まりない低級な唄があった。
1951〜52年(昭和26〜27年)頃、売春婦が米軍将校から稼ぎ出す売上が1億ドル(360億円)ともいわれた。(現代日本女性史より)
そんな朝鮮戦争景気で沸く中、横須賀では、1952年6月、同市内で米軍将校が日本円に両替する金額が月に8億7000万円ともいわれ、その大部分は売春婦や関係業者、また、米軍相手の飲食店、お土産物屋(主にどぶ板周辺のお店だろうか)に落とされたと言う。
ちなみに1951年度の横須賀市の予算が7億円と言うからそれよりもはるかに多い額である。
当時は同市に約6,000人ほどの娼婦が居たそうだ。(1951年の横須賀の人口は約266,000人)
余談だが、私が子供の頃は、市内には売春宿の建物がいくつか現存していた(営業していたのかは子供のため確認できず不明)
そこで、横須賀市はもっと多くのお金を落としてもらおうと市全体を売春ムードでつつむため、52年3月に横須賀商業会議所が観光宣伝として『横須賀タマラン節』なるものを作らせた。
このことを朝日新聞神奈川版が報じたところ、市の教育委員会はもとより市会議員、児童福祉司、児童文学者協会、子供を守る会準備会などが立ち上がり、さらに無論PTAの母親たちもだまっておらず、これらの諸機関と団体が、市教組とともに『タマラン節追放』の運動をおこして勝利した。(1952年4月4日:追放運動を決定)
そして、この運動がきっかけとなり「日本子どもを守る会」の結成に繋がっていった。
自分はもっと後の生まれだが、それでも子供の頃のどぶ板(本町周辺)はまだまだ危険な場所であり、怖い目に遭ったのも一度や二度ではない。もう少し上の世代になればなるほどそうだが、横須賀中央やどぶ板周辺には行ってはダメと子供の頃に大人からキツく注意を受けた人も多いと聞く。
今でこそ「軍港の町だ」「海軍カレーだ」だと親しみやすさをアピールしてるが、ほんの70年前までは娼婦と米兵と地元のチンピラが入り交じり混沌とした、よく言えば活気がある、悪く言えば治安が悪い、それが横須賀の街の歴史のひとつです。
この当時の横須賀の雰囲気は今村昌平監督の『豚と軍艦(1961年)』を見ればそれなりに伝わる。
最後に
近年、若松マーケット(横須賀中央駅の直ぐ近く、横須賀を代表する飲み屋街のひとつ)にて「横須賀ブラジャー」なるカクテルが生まれ親しまれているが、このネーミングセンス…タマラン節の精神が脈々と続いているように思うのは私だけだろうか…