Witching Hour
ノート,  風景

一枚の絵 ~池上~
No.3

網戸を通して縁側から心地よい風が吹いてくる。遠くに通過する電車の音が聞こえる。
寝ている叔母の頭上には一枚の絵がかけられている。美しい女性の絵。それがほこりをかぶっているのがわかったが、一人暮らしの叔母は、手をのばし掃除をするのも無理だったのだろう。
叔母はもう3日、食べ物を口にしていない。かろうじて水だけを口に含んでいる。
「ねえ、やっこ」
力のない声で私を呼ぶ。
「なあに? お水飲みたい?」
「いや、いい。ねえ、やっこ人間っていうのは簡単に死ねないのね」
どう返していいかわからず、叔母の膝のあたりにまるまっている肌掛けを広げて、胸まで引きあげた。
「少し風がでてきたね。この家は、夏でも朝夕はクーラーがいらないよね」

8月の後半のことだ。夕方とはいえ、外はまだ相当な暑さのはずだ。築50年にもなる木造の家は、床にすわるとひんやりした。
「やっこ、私はこの家で死にたいんだよ。どこにも行きたくないんだよ」
私は黙ることしかできなかった。

叔母はその年の2月に80歳になり、傘寿の祝いをしたばかりだった。
75歳で腎臓に癌があるとわかり手術をうけた。完全に取り切れたわけではなかったが、腫瘍の性質なのか、叔母の年齢のせいなのか、なだらかな坂をゆっくりくだるように病は目に見えて悪化するようなものではなかった。
6月に太ももの付け根が痛いといいだし、放射線の治療に通うようになってからは、目に見えて全身の状態が悪くなった。副作用なのか足が象のようにむくみ、ついに入院となった。すでに癌は身体中に広がっており治療の施しようがないと医者はいう。何も治療法がないならと、8月の頭に叔母は家にもどってきた。近くには、私の従姉妹にあたる娘姉妹がそれぞれ住んでいた。私も叔母の家の裏のマンションに暮らしていた。
従姉妹は私より4歳と8歳上で、姉のような存在だ。私の母が高齢で私を産んだので、母より10歳若い叔母の娘たちが、私より年上というわけだ。
母は教師として忙しく働いていたので、私が幼い頃は学校から帰ると叔母の家で過ごした。
叔母は誰より心許せる存在で、叔母もまた娘たちに言えないようなことを私には話してくれたものだった。

床に寝転び天井を見上げていると、小さい頃にもどった気がして不思議なくらい気持ちが落ち着いた。昔はそのまま昼寝をして、目が覚めると叔母がカルピスをつくってくれた。叔母のつくるカルピスはものすごく濃くて、それが叔母の愛情のように思えた。

叔母が退院してから従姉妹と交代で叔母を看た。
従姉妹たちは、食べ物を口にしなくなった叔母を再び入院させることを考えていた。このままではおそらく一月ももたないのだから、あたりまえの感情だ。その様子を敏感にかんじた叔母が、私に「この家にいたい」と言ったのだ。私にはどうしてあげることもできなかった。
隣の家から、食器を洗うがちゃがちゃという音が聞こえてくる。庭からは虫の声も聞こえた。夏は真っ盛りのようですでに終わろうとしていた。放課後母の帰宅が遅いと叔母の家で夕飯までご馳走になりかえったものだ。
当時この家には祖父母も同居していて、叔父、叔母、娘二人とにぎやかだった。
近くにある私たち一家が暮らす家に風呂がなかった頃は、叔母の家に「もらい風呂」をしに来たものだった。もらい風呂という言葉は今でも通じるのだろうか。そのころ風呂のない家はたくさんあり、銭湯もいまより多くあった。9人がひとつの風呂を順番につかうのだから、迷惑だったろうと今になったら思う。
祖父、祖母が亡くなり、娘たちが家をでていき、数年前に叔父が亡くなり、この家に叔母が一人になった。私はよく叔母の家にお茶をのみにきた。カルピスが濃かったように、お茶もやはり濃くて、湯呑みのふちぎりぎりまで注いでくれた。それをよく手に持てるなと私は思った。叔母を慕っている息子も一人訪ねては、私の苦手な魚料理をご馳走になっていた。食事の後、叔母と一緒にボードゲームなどをしていたようだ。

ある日、息子が風呂場をのぞいたらしい。風呂釜にひびがはいり、どう考えてもお湯が貯められるようではないと私に打ち明けてきた。翌日、
「おばちゃん、お風呂入っていないの?」
と私が問うと
「もうあと何年も生きないのだから、直さなくていい、シャワーで十分よ」
と言った。そう言われても放っておくことはできなかった。
そっと従姉妹に告げると、叔母を近くのマンションに暮らさせようかという話にまでひろがってしまい、余計なことをしたと反省した。叔母はこの家が好きなのだ、それだけはわかっていた。
夜、叔母の家から家に帰るまでのわずかな路すがら、見上げる夜空がきれいで、それが余計に私を悲しくさせた。

数日後、叔母の再入院が決まった。大学生だった息子が帰省していて叔母に顔を見せに来た。
突然、「マクドナルドが食べたい」と叔母が言い出し皆をびっくりさせた。おかゆでさえ口にしないのに、食べられるわけはないだろうと思いつつ息子が駅近くまで買いに走った。病人のいる部屋に、ファーストフード独特の脂のにおいが立ち込める。
叔母はフライドポテトを舐めるようにして、すぐ水を飲んだ。
「なおちゃん、あとは食べて」
その時私と息子はわかったのだ。息子は幼い頃よく叔母に「マックに行きたい」とねだっていた。叔母は二十歳になろうとする息子に、マクドナルドを食べさせようとしたのだ。とたんに息子の目に涙が溢れた。私はその様子を見てしっかりしなくてはと泣くのを堪えた。

介護タクシーが迎えにくる時間になると、従姉妹の娘、つまり叔母の孫が温かいタオルで叔母の顔をふいてあげた。幾分さっぱりしたように見えて、そんな些細なことが皆を安堵させた。
タクシーが到着すると近所の人が次々に外に出てきた。
「いつも美味しいものありがとうね、またつくってね」
「お会式にあなたのお赤飯がなかったらどうしたらいいの」
最後は、
「必ず帰ってくるのよ」
叫び声になっていた。
その時私は、女の人は住む土地に根をはり生きているのだなとぼんやりと思っていた。

タクシーが出発し、私と息子と叔母の孫が残った。部屋にもどり、堪えていた涙がでそうになるところで、孫が声をあげて泣きだしたので、わたしはまた泣くタイミングを逸してしまった。その子の髪をなでてあげながらずっと上を見ていることしかできなかった。
美しい女性の絵だけが微笑んでいた。

入院から1ヶ月、点滴や痛み止めのおかげか、叔母は病室のベッドでやさしい表情を見せていた。従姉妹たちや孫と笑い合う姿を見て、入院して正解だったのだと思えた。
穏やかな日々が過ぎていったが、季節外れの台風が関東に接近していた10月の終わりに、叔母の様子がおかしくなった。幻覚が見えるのか、私たちには理解できないことを口にする。強い痛みを訴え、鎮痛剤が追加された。
「そろそろ個室に移りましょう」
医者の言葉でいよいよだと悟る。その翌日の早朝、従姉妹から電話で叔母の血圧がさがってきたと連絡を受け、駆けつけた。
叔母は身内の全員がそろうのを待つように、息を引き取った。
唯一、他県に暮らす息子だけが最期に間に合わなかった。台風の影響で強い雨が降っている。あわててくる必要はないと私が言うか言わないかのうちに電話を切ってしまった。
いつもの3倍の時間をかけて息子が叔母の家に到着したときには、叔母はすで白い布団に寝かされており、葬儀屋の手できれいに整えられていた。

あわただしく葬儀の相談が行われていた居間まで息子の泣き声は響いてきた。
老人ホームにいる母には、翌日に知らせることにした。その日知らせたところで、台風の中を叔母のところまで連れ出すことはできない。
台風が通過した翌日ホームに出向き、叔母の死を告げた。自分より10歳下の妹の死を母は静かに受け止めていたように見えた。
「わかった」
それだけ言うと黙ってしまう。その夜、母はおぼつかない手で、叔母に手紙を書いた。字というものをしばらく書かなかった母が、ホームから便箋とペンを借りたという。その手紙は、悲しい対面のあと、母自身の手で棺のなかに収められた。何を書いたかは、母はけっして言わなかった。

告別式の日は晴れ渡り、雲一つない空に叔母の煙がのぼっていった。
叔母の家にもどり、喪服のまま板の間に足をのばし皆でほっと一息ついていたとき、長女が一枚の絵をもってきた。美しい女性の絵だ。
それは、画家の猪熊弦一郎の原画だった。
7年前に亡くなった叔父の生家は旗の台にあり、その家に弦一郎の弟子が下宿していたという。叔父もその弟子と一緒に、弦一郎に絵を習っていたらしい。
弟子が結核で体調を崩すと、叔父の両親が懸命に看病をしたそうだ。その御礼に弦一郎がこの絵を送ったというのだ。
美しい女性の絵は弦一郎の妻を描いたものらしい。
その場にいたそれぞれが、叔父や叔母からその話をきいていた。それぞれのエピソードをあわせると、どうやらこの話は本当のことだと一致した。
ただ一つだけ微笑ましいことがあった。
叔父は長女にだけは、この絵は叔母の若い頃を描いたのだと嘘をついていたのだ。
近所の人の話や残された写真から叔母が若い時はとても美しかったのは知っていた。中年以降、だいぶ太り化粧もしなかったから、ご近所の人から「岡野さん綺麗だったのよ」といわれてもピンとこなかったものだ。
しかし、亡くなった後、病でほっそりした顔に薄く死化粧された叔母は、本当に美しかったのだ。
「女優さんみたい」
皆がそう口にした。
もしかしたら、本当に若い頃の叔父が叔母を描いたものかもしれない、そんな気持ちにさえなってくる。
皆で色々推理してみたが、結局は猪熊弦一郎が描いたとしても、叔父が描いたとしてもどちらでもいいじゃないかという話になった。
どっちでもいいよ、どちらにしていい絵だよ、私たちで持っていよう。悲しみのなか、なんだか夢をみているような不思議な時間だった。

築50年の叔母の家は一年とたたず取り壊しになった。私が子供の頃から過ごしてきたこの家がなくなるのは堪え難かったが、できるだけたくさんの写真を撮り、人様にゆずれるものはゆずった。洗面所前の磨りガラスはいまとなっては貴重なものだったらしく、もらってくれた人がいた。トイレ清掃のブラシを受ける箱はこわれたのだろう、叔母がペットボトルを切って代わりにしていた。台所にかかっている「ガスの元栓点検」の叔母の文字が愛おしくてならない。


家が壊される日に立ち会えたのは私ひとりだけだった。あるいは従姉妹たちはその光景を見ることができなかったのかもしれない、私はその場にひとり居ながら、涙ばかり流していた。
気の強い私は幼い頃から人前で泣くことをしなかったが、この家で叔母の前でだけは、いつでも泣くことができた。学校でいやなことがあったとき、恋人に振られた時、叔母の前でだけ泣くことができた。
「だから今、わたしはやっと泣けるんだ」
壊されていく家をまえに、そんなことを思っていた。

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