Witching Hour
ノート,  風景

白い女と歌う男 ~関内~
No.1

1980年代後半の頃のことだ。
蒲田駅から京浜東北線に乗り、関内まで働きに通っていた。
そこは小さな英会話学校。オープンが10時だったから、9時過ぎの電車に乗れば余裕で間に合った。
その時間に都心と反対方面に向かうわけだから、必ずといっていいほど座ることができた。
横浜駅を過ぎると、驚くほどの敷地が広がっていて空がひらけた。
それを見たいがために、横浜駅で席を立ち、ドアにもたれているのが常だった。
敷地の先端の方にポツンとヨットの帆の形をした建物が見えた。横浜博という熱狂的なイベントが終わり、残された広大な敷地には、順番にホテルや商業ビルが建っていくと何かで読んでいた。
最初に建ったのが「ヨットの帆の形」をした建物で、だけれど、誰かにそう言われなかったら、ヨットの帆だとはわからなかったかもしれない。
あちらこちらにクレーンが立ち始めていたが、だだっぴろい空を見るだけで心が晴れた。
桜木町の辺りからが、私にとって「本当の横浜」だった。私は横浜が大好きだ。

関内北口、ビルの9階にある英会話学校で、受付や外国人講師のために教材を準備する仕事をしていた。外国からジャパンマネー欲しさに来日していた講師たちも多かったが、皆とても教えることに熱心だった。
「この生徒が英語を学ぶ目的は?」
新しい生徒が入学すると必ず聞いてきた。
大概は大した目的はなく、なんとなくお金を持て余した人たちが語学留学や海外旅行を楽しんでいるそんな時代だった。
道を挟めば寿町といういわゆるドヤ街だったが、ビルの9階からの景色はそれを感じることはなく、その存在に興味を抱くようなこともないような人たちが、もう少し南の元町や山手からここまで英語を習いに来ていた。
1年間の契約で100万円ほどの受講料を払える人たちが多勢いた時代だった。

当時、私たちスタッフの間でよく話題にのぼったのが、「ハマのメリーさん」だ。
「昨日、横浜駅の地下街で見かけた」
「元町を歩いていたよ」
と報告しあったものだ。
外国人講師たちも見かけたようで、私がコーヒーを淹れていると、
「顔が真っ白で、こんな暑い日なのに毛皮を着ていたよ」
と身振り手振りで話してきた。
私はハマのメリーさんのことを調べ、説明できるくらいの英語は頭の中で覚えていた。メリーさんは歌舞伎役者のように顔を白く塗り、真っ白いドレスに身を包んだ老婆だ。白い毛皮を羽織ることもあった。
戦後、関西の料亭で働き、米軍将校の愛人となる。東京では一緒に暮らしたというが、朝鮮戦争が二人を離れ離れにしてしまう。戦地が終わるとアメリカに帰り、日本には戻ることはなかったという。
彼女は、横須賀、横浜と移動しながら米兵相手の娼婦としての生活を始める。基地に数十年間と移住したが、1955年頃には、すでに伊勢佐木町の街に立っていたという。
娼婦として生きたひとりの女性。それがハマのメリーさんだ。

「クレイジー」と言った講師も、悲しそうな顔をして首を横に振る。そういう時のリアクションは日本人のそれよりずっと大きい。
そのようなやりとりが何人かの講師とあった。
私自身も何度か、メリーさんを見かけた。
最初は蒸し暑い夏の夜だった。友人と伊勢佐木町あたりで呑み、その後、外国人のボーイフレンドと合流するという友人は中華街に向かった。当時、中華街には基地で働く外国人を相手にするバーがいくつかあった。一般の人が入りやすかったかといえばそうではなかった。
伊勢佐木町の通りを関内駅に向かう途中、真っ白い女性が歩いてきた。
「メリーさんだ」
すぐにわかった。うわさ通り、いやうわさ以上に彼女は白かった。夜に光を放つかのように……。
身体は骨と皮だけのようだ。その身体を白い毛皮が覆っていたが、夏の終わりの虫の声が聞こえる夜に、その毛皮は彼女の異様さを引き立てていた。そして夜の暗がりでも、毛皮が薄汚れているのがわかった。
それでも、目撃した人が口々にいう「もの悲しい」という感情を私は持たなかった。
メリーさんはとても凛としていて、重そうな荷物を引きずりながらも、自分の足でしっかりと歩いていた。
雨の日も、風が吹く日も、雪降る日も、きっと彼女は同じように歩いているに違いない。さまざまな人の視線を跳ね除け、しっかりと前を向いて。私にはそのように映った。

当時の横浜には、もうひとり話題になる人がいた。
私たちは「オペラおじさん」と呼んでいた。
オペラおじさんはメリーさんと同じように、横浜の地下街や桜木町、関内あたりを歩いていた。
手に楽譜をもち、美しく大きな声でオペラを歌いながら早足で歩いていた。楽譜に目を落としているのに、よく人とぶつからないなと思うほど、歩く速度が速かった。オペラには全く詳しくないが、聞き入ってしまうこともあった。
夏ならポロシャツにスラックス。冬ならその上に軽く何かを羽織る程度で、特に舞台用の衣装を着ているわけではない。髪の毛の薄い60歳くらいの男性が、歌いながら通りすぎる様子はやはり異様で、私たちの話題になった。
メリーさんのように辛い過去が巷で話題になることはなかった。
「昔、有名だったオペラ歌手が、引退して心を病んでしまったのかな」
そんな噂を職場ではしていたが、真相はわからない。

真冬の夕方のことだった。
その日は朝からすでに雪の予報がでていた。夕方くらいに降り出すと聞いていたが、昼過ぎからすでに強い雪が舞いだした。15時からの授業は全て休講にして、生徒に連絡を入れた。講師たちも自分の持ち場が終わったら家路に着いた。
私は16時過ぎに職場を出て、関内の駅を目指した。車はまだ普通に走っていて、歩道も滑ることなくなんとか歩けた。
関内北口の階段を昇り、ホームに出ると、線路の上は真っ白で、静寂の世界が広がっていた。降る雪が音という音を飲み込んでいるようだった。

雪が強くなってきて、ホームに人が増えてきた。電車は遅れているのだろう。もう少し遅かったら帰れなかったなと思ったその時、突然ホームに歌声が響いた。
石川町駅方面のホームに、オペラおじさんが立っていた。
薄着なのが一目でわかる。楽譜を顎の高さにあげ、歌っていた。
雪は雑音を吸収し、歌声だけがホームに響いた。
それは、とても幻想的な時間だった。
両ホームで電車を待つ人は、彼の方を見なくとも、耳を傾けていたはずだ。
電車がまだ来ない。
そして、歌い終えた時、どこからともなく拍手が起きた。
その拍手は北口から南口の方まで広がり、まるで舞台後のスタンディングオーベーションのようだった。
そのすぐ後に貨物列車が通り過ぎた。関内駅は貨物列車が通ることがある。列車が過ぎ去った後、向こう側のホームに、もうオペラおじさんの姿はなかった。

私は立ち尽くしていた。感動というより、この時はむしろ悲しい気持ちが心を締めつけた。その時の思いを、30年経った今でも、うまくいい表すことはできない。

そんな二人がいた「横浜」に8年ほど務めた。
しばらくして、メリーさんを見かける人はいなくなり、オペラおじさんも見なくなった。私は仕事をやめ、横浜にはたまに遊びにいく程度になった。
電車から見える桜木町には、たくさんのビルが建ち、「みなとみらい」と呼ばれるようになっていた。

今思うのは、当時、街にはこういった風変わりな人を受け入れる寛容さがあったということだ。人々は生きることに一生懸命で、ある時は生きることを楽しめる時代だった。
おそらく今よりはずっと……
メリーさんやオペラおじさんは特別な存在であったが、特別な存在でなかった。何かを包み込むことのできる時代だった。
そんなおおらかな時代は、戦後の悲劇や、何かの拍子に人生を狂わせた人たちを大きく包み込み、静かに街を歩かせ、夜に眠らせていたのだろう。

街のできごと・街のきおく

ライター |イベント運営 |街の仕事・発信

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