Witching Hour
ノート,  風景

美しい人 ~蒲田~
No.2

住む街にある行きつけのバーは、カウンター4席、テーブルが2つの小さな店。
なんとなく真っ直ぐ家に帰りたくない時や、誰かと少しだけ話したいなという時、軽く寄ることができる。開店は19時、すいていて、他に客がいないことも多く、マスターと気楽なおしゃべりを楽しむことができる。マスターは私より10歳下。
壁掛けの大きなテレビには、古い映画が、かかってる。

仕事帰りに寄った私が、ドアを開けると先客の若い女性がいた。
髪を後ろに一つに結んで、グレーのパーカーを着ていた。化粧をしていないが、その女性が綺麗な人だと一目でわかった。30歳くらいだろうか。
隣にどうぞと言ってくれたので、とりあえずビールを頼み、3人で乾杯をした。飲み始めると、彼女が口を開いた。
「2週間前に母が亡くなりました。私はもうすぐ北海道に帰ります。弟がこちらにいるから時々は帰ってきますね。次は旦那さんと一緒に。母の看病をしている間、ずっと一人にさせちゃったから」
「そうだったんだね。このところ顔出さないと思っていたんだ」
マスターが言う。
「大変だったんですね」
ありきたりな言葉しか出てこなかった。彼女の母親は60歳前に病気を患ったという。こちらに暮らす弟と二人で、半年間、看病をしていたそうだ。彼女自身は、結婚後北海道に引っ越し、数年しかたっていなかったが、ご主人を残して生まれ育ったこの街に戻り、母親の看病をしていたという。
「父も数年前に亡くなったから、もう両親がいなくなっちゃった。寂しいです」
「そうだね」
私もマスターも言葉を選びがちになった。彼女は明るく続けた。
「でも、私たち家族にはすごくいい思い出があるんです。何年前だろう。父の誕生日に、新橋にある会社まで母と弟と押しかけたの。ビルの下で待ち伏せして、4人で新橋のガード下で飲んだんですよ。夏だったから、まだ外が明るかった。父は夏生まれだったの。楽しかったなぁ、皆でたくさん飲んで、たくさん笑って。父も楽しそうでした。4人で記念写真も撮ったんですよ」
カバンから手帳を取り出し、挟んだ写真を見せてくれた。夏の夕暮れの陽射しに包まれて、4人が笑っていた。

「そのあと父が倒れてあっという間だったの」
「そう」
「母までが死んじゃうんじゃないかってくらい悲しんでいました。泣いてばかり。痩せちゃって。でもある時、『梅酒を漬けなくちゃっ』って言い出して梅をたくさん買ってきたの。父がね、梅酒を大好きだったんです」
「へえ」
「それで、新しい梅酒を漬けました。あと、何年も前の梅酒の瓶も出してきたの。ずいぶん昔から漬けていて。お父さんはどれも半分くらい残していたから、瓶が何本もあったんです」
「古いほど、いい色になるんですよね、琥珀色で」
「そう! 色が濃くって味も美味しいの。その時、母と弟と一緒に次々飲んだの」
「酔っ払ったでしょう」
「はい、もうベロベロに。でもそれから母は元気になりました。その後しばらくして私が結婚して、北海道に行きました。弟が母と暮らしていたから、安心していたんです。私の旦那さんはすごく優しいから、お正月やお盆休みは池上に一緒に来てくれて、母の梅酒をお父さんの代わりにっってよく飲んでくれたの。母は喜んでいました」
「やさしい人ですね」
「弟さんもこの店来るんだよね」
「その後、母が病気になってしまったんです。最初は弟に任せていたけれど、だんだん悪くなったから、私がこちらに出て来たんです。もう半年以上になるかな。それで週に一度、母が寝てから弟と気晴らしにこちらに来ていたんですよね」
マスターは頷いた。
「私も週一くらいでこのバーに来ているけれど、お会いできなかったですね」
「割とすぐ帰っていたから。母が心配で」
余計なことを言ったなと後悔した。マスターは、察してくれたのか
「でも、いろんなことを話してくれたよね。お母さんのこと、旦那さんのこと。お母さん、最後は苦しまずに?」
「はい、綺麗な顔をしていました。いつかはって覚悟していたし、父のところに行けたから」

そこまで話して、マスターの作ったカクテルに口をつけた。爽やかな薄緑のお酒が彼女に似合っていた。
「旦那さんに寂しい思いをさせたから、北海道に帰ったらたくさん尽くしてあげたいんです。髪を綺麗に切って、化粧もちゃんとしようって思います」
きっと自分のことに構う時間などなかったのだろう。
「あと、子供が欲しいの。今からでも間に合うかしら。私、もう33歳なんですけれど」
「もちろん間に合いますよ」
「そうかな、母はすごく美人だったから、母に似たらいいな」
そう言ってグラスを飲み干し、彼女は席をたった。
「マスター、本当にありがとうございました。お正月には帰ってくると思います。お会式は無理かな。また必ず来ます」
「待っていますよ」
「あ、そうだ。私ね、明日梅酒を作ろうと思って、ビンと、角砂糖とか買ったんです。でも梅がなかなか売っていなくて買えなかったの」
「あんずなら、まだあるかもしれない」
マスターが言った。
「あんずかぁ、いいですね、探してみます。母のやっていたことを続けたくて」
私は言葉が出てこなかった。
「では、マスター、本当にありがとうございました。たまに弟が来ると思うからよろしく。あの子私より寂しがりだから」
私にもおじきをしてくれて、彼女は帰っていった。

しばらく私とマスターは何も話さずにいた。
「もう一杯だけ飲もうかな」
「大丈夫ですか」
「うん」
私は2杯で大抵酔っ払う。マスターはそれを知っている。
「マスターもどうぞ」
「こういう商売って、ずっと来ていたお客さんが突然来れなくなったりするものなんです。そういう時は寂しいんですよ」
「そうですよね。転勤やら色々あるものね。でも彼女、明るかったですね。明るくしていたんですね」
「はい」
「綺麗な人でしたね」
「そう思います」
前に淡いオレンジ色のお酒が置かれた。
「あんずのリキュールです」
少しすると他に客が来たので私は席を立った。
「気をつけて帰ってくださいよ!」
「はーい」

帰り道、彼女が化粧した姿を思い浮かべてみたが、うまくできなかった。
今夜の彼女が美しすぎたのだ。

ライター |イベント運営 |街の仕事・発信

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